分断という言葉への違和感

 

最近「分断」という言葉をよく耳に/目にします。これまでは、あまり聞いたことがなかったような気がします。いったい、どこの誰がいつ言い出したのでしょう。といっても、私はそこまで調べるつもりではなく、マスコミ(特に新聞と週刊誌)が日本社会に関して「分断」という言葉をその重さを考えずに使うことに憤りを感じているのです。

広辞苑(インターネット)には分断を「まとまりのあるものを断ち切って別れ別れにすること」となっています。

現代日本語書き言葉コーパス「少納言」で調べると、2001年から2005年までの間の新聞記事で「分断」が使われたのはたった10回で内訳は次の通りですが「日本国民の分断」はどこにもありません。
肉体(2)、囲碁の陣地(2)、USA(2)、国際社会(1)、国内与党(2)、民族(1)

そもそも、広辞苑にあるように、分断とは、もともと一つだったものがわかれてしまうことを意味しますが、マスコミは何が分断されたと騒いでいるのでしょうか。例として「元首相の国葬実施が国民を分断した」と新聞各紙は書きましたが、それは「国葬するまでは国民全員が元首相推しだったのに」という意味でしょうか。少なくと私は元首相推しではありません。「世の中には意見の違う人がいるものだ。それに、国葬反対の人が多いのに少数意見で国葬を実施してしまうなんて、日本は少数意見を聞く民主主義の鏡のような国だ」ぐらいのイヤミは言いますが分断だとは思いません。

また、SNSの炎上、LGBTの差別、ヘイトスピーチを分断の例としてあげている雑誌もありますが「ちょっと違うんじゃないの」と言いたくなってしまいます。貧困の問題や格差社会の問題を抱える現代を「分断の時代」などと言ってしまっているのを聞くと、問題のすり替えもいい加減にしろと思います。

勝手な私の分析では〇ん〇んのリズム感と音の感じがいいのでマスコミ各社が使っているのだと思いますが、あまりにも安易な使い方ではないでしょうか。

マスコミ各社は、意見が違うこと、価値観が違うことを「分断」と言っていませんか。それは正しくはダイーバーシティというのです。多様性というのです。意見の違いによる暴力は認めてはいけませんが、マスコミ各社は「分断はだめ」と書きなぐって、戦前のように国民のベクトルをひとつの方向に誘導しようとしているのでしょうか?それとも、マスコミ、またはマスコミ関係者の国語力の低下でしょうか。きっと後者だと思います。他の国語力低下の例として、某紙の社説には文末に「・・・べきだ」と書かれているものが多いのですが、その100%に主語がありません。「べき」は「XXがYYすべき」という文法構造なのに「ZZZの戦争を早く止めるべきだ」の主語が無いので「日本国民は」と言われても困ってしまいますし、「われわれは」と言いなおされてもどうしようもありませんし、ZZZの大統領の名前だとしても日本の新聞が社説でつぶやいても何の効果もありません。

このブログで私がモノ申してもどこかに伝わるわけではないと思いますが、言葉を仕事にする人は言葉を大切にしてほしいと切に願います。

あるまかんポイント
・私以外にも私と同様に「分断」という言葉の使い方に違和感を感じている人は多くいらっしゃるようです。

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