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数の子から逸、悦を考える

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 もうすぐ、正月。 正月の楽しみといえば、お節料理と、旨い日本酒。とくに、数の子と日本酒の組み合わせがいい。しかし、「数の子」というネーミングは、どうもピンとこない。 数の子は、ニシンの卵である。鱈の子供は「タラコ」であり、鯛の子供は「鯛の子」と呼び、ニシンの卵が付いた「子持ち昆布」や「子持ち若芽」はあるが、どうして、ニシンの卵だけが「数の子」なのか。どうして、日本国民は、そこに疑問を感じないのか。 話は変わる。秋田県の男性に「逸」や「悦」が付く名前が多いと感じた話である。 「秋田県のことなど興味がないし、そこに住む人の名前など、興味のあるはずがない」「秋田県がどこにあるか知らない」という人も、秋田県に行けば感じるはずである。「逸」「悦」の付く名前が多いことを。例えば「秀逸」「秀悦」「勇逸」「勇悦」という具合である。それぞれ。「しゅういつ」「しゅうえつ」「ゆういつ」「ゆうえつ」と音読みする。 実は、その理由を知っている。それは、訛りである。 かつて、秋田に限らず、子供が生まれた時、役所に申請に行くと、窓口で、子供の呼び名を聞かれた。まだ、漢字を書ける人が少なかったので、届出人の発音を、窓口の担当者が漢字に直した。 「生まれた赤ちゃんの名前は?」 「『ゆういち』です」 「えっ?」 「『ゆういち』です。」 ここが訛ってしまうのである。 「ゆういち」と言っているつもりが、訛りのために「ゆういつ」に聞こえるのである。「ゆうえつ」と聞こえる時もある。だから、本当は「勇一」という名前なのに「勇逸」や、「勇悦」になってしまうのである。 諸説あると思うが、間違いない。 ところで、「諸説ありますが・・・」という言い方が、いつの間にか、市民権を得ているが、諸説とは、一体、いくつの説なのか。2つであれば、諸説とは言わずに、二説というはずなので、3以上であるはずだ。先の、私の「逸、悦説」は、実のところ、他の説を知らない。知らないが、調べるのも面倒なので、「諸説」とごまかした。しかし、読者には、「いろんな説がある」と伝わってしまう。まるで、フェイクニュースである。 話は、二つ前に戻る。 秋田県では、ニシンのことを「かど」と呼ぶ。居酒屋へ行っても「かど焼き」と言って、生のニシンを焼いてくれるところもある。もう、お分かりだろう。「かど」が訛るのである。「かど」が訛ると、「かず」と聞こえる...

有名な学者に、「ワークライフバランス」について、お聞きしました。

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 (フェイクニュースです) 記者「先生。ワークライフバランスの、ベストな状態のバランスは、何パーセントずつですか?」 識者「一般的には、ワーク対ライフは、50%:50%がベストです。ただし、子育て中は、40%:60%になることもやむを得ないと考えます。」 記者「なるほど。多少の誤差は、許されるということですね。」 識者「そうですね。厳格すぎるルールは、ルール破りを生むと言いますから、ある程度の柔軟さは必要ですね。」 記者「ありがとうございます。今、ルールとおっしゃいましたが、企業としてのルールという意味ですか?」 識者「あっ。あくまで、それは、表現上の話で、規則を作るということではなく、目標を持つという意図ですね。」 記者「そうですか。安心しました。ルールを作ると、ルールの番人が必要で、また、生産性のない、余計な仕事が増えますからね。」 識者「そうですね。ワークライフバランスとしても、生産性は大事ですからね。」 記者「納得しました。ところで、生産性の低い、ダメ社員でも、やっぱり、50%:50%のバランスがいいのですか。」 識者「もちろんです。ダイバーシティの時代ですから。生産性の低い社員を差別してはいけません。」 記者「理解しました。ところで、2点お聞きしますが、まず一つ。50%:50%と仰る比率は、何の比率ですか?2点目。ダイバーシティって、差別しないという意味ですか?」 識者「・・・・・・・・・」 記者「(答えられないのかい!)」

柿食えば・・・・

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「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」という俳句がある。つい最近まで、芭蕉か、一茶の句だと思っていたが、子規の句らしい。「つい最近」とは、3分前のことである。3分前までは、芭蕉か一茶だと思っていた。 調べてみたら、違っていた。 子規といえば「またおかしき」ではなく、「まさおかしき」であるが、そんなことはどうでもいい。 子規は、「ああ、法隆寺で鐘が鳴っていることよ」と感じた。ということは、子規は、法隆寺には、いなかった。たぶん、隣の中宮寺にいた。私は、中宮寺の半跏思惟像よりも、広隆寺の半跏思惟像のほうが好きだ。中宮寺は観音菩薩で、広隆寺は弥勒菩薩である。   話は「柿」である。 柿には、すごい力がある。鐘を鳴らす力の話ではない。柿の味の話である。 子規が、どんな柿を食べたかは。知る由もないが、硬い柿だったのか、ジュクジュクの柿だったのかを想像してみたい。硬い柿は、あまり味がない。歯応えはある。ジュクジュクの柿は、甘い。驚くほど甘い。感動するほど甘い。しかし、歯応えはない。 美味しいのはジュクジュクだが、子規が食ったのは、硬い柿である。硬い柿でないと、鐘は鳴らせない。 考えてみてほしい。硬い柿も、ジュクジュクの柿も、同じ柿である。硬い柿と、ジュクジュクの柿の間には、「グラデーション」がある。と、思いませんか。徐々に、味が変化していくと、感じたことはありませんか。最後には、干し柿にまでなる。 例えば、リンゴ。リンゴにはグラデーションはない。と思う。例えば、バナナ。美味いか、臭っているかのどちらかしかない。グラデーションはない。ミカンも、グラデーションはない。当然、スイカもない。ましてや、ブドウに、あるはずはない。マツタケはわからないが、マツタケは果物ではないので、どうでもいい。モモも、グラデーションはなさそうだ。 で、柿を食えば、鐘がなるのである。ジュクジュク柿を頑張って食べている時には、鐘の音なんて聞こえるはずがない。 正岡子規は(マタオカシキではない)、熟す前の硬い柿を食べて、「熟すまで待つ忍耐が必要」と言いたかったのだ。きっと、そうに違いない。

納豆の怒り

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 たぶん、納豆はイカッている。苦労して、独自のニオイを はなっているにもかかわらず、正式な名前で読んでもらえていないことに憤慨しているようだ。 納豆は「豆を納める」と書く。どこに納めるかというと、例の「ワラ」である。しかし、ナットウ(ここで、急にカタカナになるのは意図があってのことで、タイプミスではない)の、本質は、ニオイ(匂いか臭いかがわからないのでカタカナにする)であって、ワラではない。 ニオイとは、腐ったニオイのことである。腐った豆のニオイである。腐った豆?では、「豆腐」ではないのか?! そこが怒りのポイントである。 かつて、ナットウの漢字は、納豆ではなく豆腐であった。腐った豆であった。そこに、トウフが来た。「来た」と言うより、「ねじ込んで来た」のほうが正しい。型に納まった豆、つまり、納豆はトウフであった。トウフはナットウであった。ナットウはトウフであった。 訳がわからなくなった。 とにかく、かつて、納豆が豆腐で、豆腐が納豆であった。ここに、異論を挟む余地はない.。

「ワークライフバランスなんてくそくらえだ」と言ったのですよね?(ワークライフバランス その4)

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自民党総裁選で勝利した高市早苗氏の「ワークライフバランス」発言については、既に、違和感を感じておられる方も多いと思うが、ここで私見を述べさせていただく。 高市氏は「私は総裁になった。今後は、ワークライフバランスというようなことを考えずに、国民のために仕事をする」という趣旨の総裁着任の挨拶をした。 これは、間違いなく、小泉氏への嫌味である。小泉氏は、ワークライフバランスの名のもとに、育児休暇を取得した。高市氏は、「そんなことでは、国民のための仕事はできない」と言いたいようである。また、「だから、あんたは負けるんだよ。ざまあみろ」と表情で付け加えているように見えた。また、これは「挙党態勢」と言いながらも、その気がないことを意味している。 ただし、国民のために仕事をすることと、ワークライフバランスには、何の関係もない。高市氏は、しかし、何らかの関係性を見ている。つまり、氏の周りには、必死で仕事をしない政治家が多いということだろう。 もう一つ問題がある。氏は「ワークライフバランス」を「時間」という「量」で捉えている。これは、かねてからの議論ではあるが、ワークライフバランスは、量ではなく、質の話である。つまり、高市氏が「寝食を忘れて」仕事をすることが、氏にとってのワークライフバランスのはずであり、時間の問題ではないはずである。(「寝食を忘れて」が「ワークライフバランス」の代わりに使うべき言葉であったにも関わらず、氏は、語彙不足であった。) もう一点。ワークライフバランスは、もともと、「仕事をしている女性が家庭のケアができない状況を改善する」ための言葉であった。つまり、女性をサポートするための考え方が源である。高市氏は、それを「ワークバランスなんて言ってられない」と片付けてしまった。是非はともかく、世論からはかけ離れている。 安倍政治を継承するという意味が、右傾化だけではなく、「言葉を弄ぶ」ことの継承にならないことを望む。 ワークライフバランスの定義は、人によって違う。それは、業種、職種によっても違うし、ポジションや能力によっても違う。性別によっても違う。個人の家族構成や家計の状況によっても違う。当然、価値観によっても違う。つまり、「質」の話である。しかし、質は測れない。だから、「時間」を尺度としてしまうのも致し方ないとも思うが、だからこそ、軽々しく使ってはいけない言葉である。...

AI雑感 ➁: 日経XTECH(クロステック)NEXT関西2025に参加して

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2025年6月に「日経クロステックNEXT関西2025」というイベントに参加しました。 このイベントは日経BP社が主催して行われたものですが、「クロステック」はIT、建設、製造の分野がクロスオーバーしていることを意味しています。 大阪の中心である梅田が会場で、関係するベンダ各社の展示ブースと50-60人くらいから100名くらいを聴衆にした30分くらいのセミナーが数多く行われました。 現役時代は情報収集を目的として今類の展示会+セミナーには積極的に参加していたのですが、引退してからは初めての参加です。 参加の理由は2つあります。 ひとつ目の理由は、「引退してから8年が経過し、その間の情報技術(IT)の進歩や変化に疎くなってしまっていることへの反省」です。定年で引退する最後の年(つまり、8年前)には「顧客からの質問に対して迅速な回答ができるように、わが社もAIを導入すべきである」という社内部署からの提案に「AIは、未だ、進歩の途上にある技術の為、それを安易に導入すべきではないし、コストベネフィットがあるとは思えない(試算したコストは5億円)」と一蹴し、「RPA (Robotic Process Automationの略で、定型化された事務的な処理をソフトウェアに実行させて人的コストの削減や業務の合理化を行う方式)を導入して社内の業務を合理化すべきである」と言い出した部署(購買部であった)には「君の部署の中でコンピュータに行わせる定型業務を洗い出し、その業務に従事している人員コストの削減案を明確にすべし」と押し返しました。 でも、8年が経過した今、そんなことを言っていると相手にされない時代になっているのです。 もうひとつの理由があります。たまに受注するコンテンツライティングのテーマが、最近、「AI」「RPA」「情報セキュリティ」ばかりなのです。そのため、最新情報に触れておかないとライティングができない状況になっています。 このイベントへの参加で技術が身についたわけではないのですが、(無料で)自分の知識が古くなっていることを再確認することができて、とても感謝しています。 ただ、かつてのように、ハードウェア、ソフトウェアの導入を前提としておらず、あくまで自分の知識不足を確認するというスタンスだったため、ベンダ各社のブースで深い、実務的な質問をすることができまかったことは残念で...

AI雑感 ①:「フェイク」と「生成AI」を同じ土俵で語る朝日新聞の不思議

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2025年6月15日付の朝日新聞朝刊に「この画像、『フェイク』?『リアル』?」というタイトルの記事(コラム)が掲載されました。 その記事は2枚の写真を載せて、「どちらも、フェイクだ」と断じています。1枚は、二人の少年が石の階段に腰掛けている画像。もう1枚は、プロらしいバスケットボールの試合で、多くの選手が、ゴール下でボールを取り合っています。 二人の少年の写真については、「一人のお尻が石段にめり込んでいること」、バスケットボールの画像については、「ひとりの選手の足が3本あること」が「フェイクの理由だそうです。 この記事を読んで、違和感を感じた私は、すぐさま、朝日新聞の編集部にメールを書きました。 メールの主旨は「これらの写真は生成AIが作成したと思われるが、生成AI=フェイクと評価するのはいかがなものか。フェイクとは、人を欺く意思のもとで作成されるものであり、この写真に悪意は感じられない。既に市民権を得ている生成AIを『フェイクをまき散らす悪者』とするのは、時代遅れではないか」というものです。 当然のことながら、朝日新聞からの返事はありませんが、リアル、フェイク、生成AIを同列に論じる記事は、生成AIにあまりなじみのない読者に対するフェイクではないのでしょうか。 例えば、この画像をご覧ください。これは、私が生成AIに「外国人観光客が日本を楽しんでいる画像を作ってください」とプロンプティング(指示)してできたもので、このブログの別の記事にも使っています。 この画像は、ひと目で、生成AIが作ったものだとわかります。何故かというと、人物の性別、人種、肌の色は様々ですが、顔のつくりは全て同じです。まるで家族のように似ています。 では、これと同じ意図の写真を京都などの観光地で実際に撮影したら、何が起こるでしょうか。そうです。「肖像権の侵害」です。あまり気にしない方もいるかもしれませんが、勝手に人の写真を撮って、ブログに載せることは許されません。フェイク記事とは別の意味で、問題になってしまいます。 このように、想定される問題を避けるために、生成AIを便利に使うことも可能です。これも朝日新聞は「フェイクだ」と言うのでしょうか。 この記事は朝日新聞の浅薄さを指摘することを目的としている訳ではありません。 ただ、AIから離れた生活をしている人、将来、AIを使いこなさなければいけない人...